もう数学会はいいかなと思っていたが,目覚めが意外によかったので出動.
T井A人先生のモデル理論の話を聴く.四年くらい前にこの方の授業をもぐりで受けたけれど,
出席者が僕をふくめて三人しかいなくて,何とものどかな雰囲気の授業であったことを思い出しました.
Uさんの特別講演はついていくように最善の努力をしたつもりだったが,もちろん全然だめ.集合論の道は長い.
帰りはモデル論の方々とも議論をふかめました.
大岡山通い三日目.
何か色々なことがあったような気がする.そして家に帰ると,すべてが存在しなかったような気もする.
昨日大岡山に行ったことも一昨日間違えて大岡山に行ったことも,すべて存在しなかったような気もする.
こうした存在しなかったような気のすることたちに一つ一つ私は過去というラベルを貼り付ける.
そしてそれは存在したことになって事態はぎりぎりのところで彌縫される.
(さいと〜くん,あべのりくん,今日一緒に茶・飯・酒したことは確かです.安心してください.でも,ひょっとしたら…?)
圧倒的数学者密度.いやでも数学をせざるを得なくなる限界密度を超えた.
位相空間論には,「写像により誘導される位相」「位相の強弱」を基本概念に立てるやりかたがあるように思える.
例:$f\colon X\to Y$ が連続とは,誘導位相 $f^*S$ が $T$ より弱いこと.但し
$T$ は $X$ の開集合系,$S$ は $Y$ の開集合系.
位相とは本来は開集合系でも基本近傍系の族でも閉包作用素でもない何がしかの近さの概念である
という漠然とした考えに基づいて,「開集合系」という具体物を消す方向で定式化するのにこれは適しているのでは.
東工大に行って講演会場に行ってみたが全然人が集まってこない.
日付を間違えていたようだ.結び目の講演を聴いて帰る.
$n$-point set の Borel 階層はもっと上がらないものでしょうか?
$n$-point set について何が分かっているか調べてみようかなあ.
(そして,この文章の意味を一読して分かる人は何人いるのかなあ.)
ふと起きると,何かが別の何かの役に立つとはどういうことか,がまったく気にならなくなっていることに気付くのである.
当たり前だ.誰もそんなことを気にしてはいない.問題の存在すらはっきりしない.もう虚しくて泣けてくる.
何にも気付いていない→何も分からないという形の変化は有り得ても,結局やることすべて昨日までと同じなのである.
イメージだけでいうのも何ですが
例えばこのような記事に嬉々とするのが最近の新鉄道ブームの対極にある方々なのでしょう.
そして私はこの方々にも全面的に共感することはなくて,鉄子の旅みたいなのにも共感することはなくて,
鉄道がだんだんつまらなくなって,いったい鉄道趣味って何なんだろうねという人たちに共感するのですが,
そんなカテゴリで人がまとまるのは大変むずかしいでしょうね.
で,数学についての話ですが
Zeeman のPLトポロジーのレクチャーノートはいいと思います
PLトポロジーでは三角形分割された図形がもっぱら出てきます
とにかく絵にかけることが多すぎて困るくらい絵がかけるわけです
そして図から正しそうに思われる主張は,まず間違いなく証明をすっとばします
しかし,証明を補充してみると隅々まで検証される.やはり Zeeman はすごいと思います
PLトポロジーは結び目などを勉強する人にとって一つの trap だというのはある意味正しいと思います
だって,こうしたところでは直観的に明らかと思えそうな命題をPLトポロジーから引用しているのに
そのPLトポロジーを勉強すると,直観的に明らかと思えそうなところが飛んでいるわけですから.
コチュジャンが原因の汗はさすがにもう止まりました.
来週は学会ですね.GN関係の講演にも少しでも多くの人が来て下さるとうれしいのですが.
昨日コチュジャンをそのまま大量に食べたので顔から汗が出てたまらない.
起きる時間がだんだん遅くなってきてついに正午近くなってきた.
数学などして何かいいことがあるのかという疑念を一切いだかずにオイラーの昔発見したという定理を勉強した.
このことについて僕は面白い,驚異だとおもう一方で,大いに反省の余地もあるのではないかとおもうのだが,
結論が,それでも数学をやる,ということに決まっているなら反省の必要は少しもないともいえるのである.
身近なことについて反省,懐疑することの原理的なむずかしさには途方に暮れるものがある.
TX開通から3年.
東京・筑波間のバスはただ眠りたい人,目的地にいつ着いてもいい人などのための乗り物になりました.
往復で買うとかなり信じられないディスカウント価格になるんですけど,本当にこんなに安くしていいのかね.
私にとっての新解釈:5つの物のグループ分けの仕方すべてに名前がついている言語は世界中で日本語だけである. (「源氏香」のこと.)
いくら言いたいことがあっても人前では10%オレンジジュースのように希釈されて出てきてしまう.
いままでの経験に基づいて直観的判断としてそうしている.「そういう考え方もあるよね」とかわされるのが一番こわい.
「あなたのことは徹頭徹尾,まったく理解できません」といわれた方がまだ建設的なのだが.
爆問学問を見た.太田の主張についてゆけないところが少々あったが,番組としてはまあ面白いんじゃないか.
静かな日.
結局すべては無に帰してしまう世の中で,何かが別の何かの役に立つとはどういうことか? と一時間くらいぼんやり思った.
そして,何かの役に立つのかわからず,その「役に立つ」がどういうことかもわからない数学を半分眠りながら考えた.
数学は分からないし,数学以前のいろいろのことさえ,実は全くわからない.僕は大学で知識を逆にはぎとられたんじゃないか.
そういう訳で,考え出すと何もかも不明なのですが,Painleve-Kuratowski 収束のまわりでもとりあえず勉強してみることにします
さんまの塩焼きを食べた.さんまを美味しいと思うようになったのは大学に入ってからじゃないかな.
そういえばごぼうも最近は結構いいかもと思うようになった.コーラは前ほどは飲まない.
大学一.二年生が「もも水(一リットル)」とかをがぶ飲みしているところを見ると,さすがに歳違うとおもう.
何か未解決問題が解けたと思ったので間違っていると直感したのですがはたしてそうでした.
ヨドバシアキバの「風月」でモダン焼きの大きいのを食べた.これで昼食と夕食とを兼用.
二年位前はお客さんも店員も大阪弁をしゃべる人が多かったけど最近はそうでもないような.
ポーランドの人は,和のΣや積のΠのように,∀や∃の下にそれを束縛する変数を書いていることがよくあるが,
その方が(一般的なものよりも)合理的な記法じゃないかと思う.
もう7年前になった北海道旅行を思い出す.911テロを札幌のユースのテレビで見たことを思い出す.
知っている数学といえばO先生の解析の授業を「解析」して分かったイプシロンデルタだけ.
複素解析の本を写経してみて,そして何も身に付かなかったのもその頃.
これらすべて,実在したのかよくわからない.あたり一面現在しかない.
数学の話ってなんでこんなに理屈ぬきに楽しいんでしょうか.そして現実の話ってなんでこう息が詰まるんでしょうか.
へっ! そんなもんさ! 河澄先生のテストがあったそうで,主に4年・M1の皆様おつかれさまでした.
ホモトピー完全列って証明はおそろしく簡単なのに何でそこまで使えるんでしょう.ほんとにわからん.
で,algebraic topology から遁走して point-set topology をやっている私ですが,
今日も新しい概念を勉強しました.その名もp構造.ほんとにこれは何だ.
理解できたら人に説明してみたくなるような話なのかしら.
気分は快調であって勉強も進んで,院生室には2回も入り,2冊の製本をし,ということは何らかの大事なことを忘れているということが結論されるけれども,それでも忘れていることを素直に受け入れていられる.こういうあやういバランスでもって進むしか,ないということだろう.
キーボードクラッシャー動画には負ける.
僕も9月4日に誕生日をむかえたのですが,僕の周辺はなぜか9月生まれが多いみたいです.
段々ハッピーバースデーも素直に喜べなくなってきたかも.それでも誕生日は毎年くるのですね.
ハッピーバースデー!
北海道,某所.広々としている.深い山へと続く道があり霧におおわれている.
ここは以前にも僕の夢にでてきた.ここには粗末な宿があって自転車を貸してくれて,その近くに寂れたスーパーがあって地下部分にはこの辺の人口に見合わないたくさんの店があるのだった.いまはどうなっているのか調べてみたい気もする.
そこへバスがやってくる.駅に行くバスであるかもしれない.もうすぐバス停にとまりそうだ.僕はそれを追いかけるが,バスは停留所にとまり客をおろした後,さっさとドアを閉めてしまう.発車しようとするバスのドアをたたいて叫ぶ.「すみません!」このとき僕は現実世界にも届く大声で…つまり本当に…叫んでしまったらしい.そこで目がさめた.
某日記がたいへん面白いことになっていることに気付いた.
今日は筑波まで実によく寝た.議論してみた結果,いろいろコンパクト化してみることに.
それにしても,世の中にコンパクトであるといえるものが一切ないにもかかわらず,
こうまでコンパクトなものが確然と「ある」気がするのはなぜだろうか?
!!本当にすみません!!
昨日理解不能と言った証明はあっていました.レフェリーの方,どなたか分かりませんがお許しください.
神保町界隈を「暑いな…これからどうしよう…」と言っているような表情で歩いていたのが僕です.
喫茶店に入り浸って論文を読んでいました.聞いたこともない論文誌のとある論文を読んでいました.
そして Theorem 3.2 の証明の最後の文が理解不能.たぶん証明は破綻している.主張そのものは正しいか不明.
うーん,内容は基本的に初等的だったから,これは査読が甘かったということでしょうか….
もう9月になっているが,これからどうなるのか皆目見当がつかない.果たしてこの日記は存続するのか?
かようにして,時々私は自分の将来を他人事のようにして考える.本当にどうなってしまうのか?
結果として自分のいままでのたどった道は運命で決まったと言うことはできても,
これからのことも運命で決まっているからやはり何をしても虚しい,というのにやや奇妙な感じがするのはなぜか?
都合が悪くなると自分を生きることをやめて外部観察者に退行する傾向をおしとどめることができない.
こういうことが弱いということなのであろうか? こう言った瞬間に更なる外部観察者への退行がみられ,
以下同様….もう少し続けてみたところこの文は超限帰納的につづくことがわかりましたので,ここで止めます….
今日院試の筆記が終わった方はお疲れ様でした.
なぜパルコの手相コーナーはこんなに賑わうのか? 正直真剣な顔をして手相を見てもらっている人が信じられない.
けれども,そういう私も,神社仏閣にお参りしている人に対しては同じような印象は抱かないのだ.
これは大した偏見である.
とはいえ数学のおもしろさの一面がその無意味さ・空虚さに根差しているとしても,
そればかりが強調されると数学ではなくなってしまうように思われる.
しかし数学を世の中にアピールする際に「こう役に立つ.だからその研究は支援されるべきである」
のようなやり方をするのは,どうも強烈な違和感がある.
どうにも立ち行かぬのでこういう言い訳を書き連ねている.
有象無象を巻き込みながら数学は局所定数的に明日へと押し寄せる.
数理の一階が資材置き場になってるのを図書館の人が写真に撮ってた.と思ったら図書館ブログにのってた.
まだ使える蛍光灯まで一遍に省エネ型に置きかえてしまうのが「環境によい」ことなのかは判断つきかねますが.
まあとにかく蛍光灯の需要が喚起されたので経済効果があったことにはまちがいないですね.
ドラクエのゾーマの曲は名曲ですね
「巨大基数の集合論」を投げ付けられた人は死ぬといわれたら僕は信じます
「悪の集会」で京都に行っていた.
(この言葉は数学的内容もさることながら,学部時の「悪人」が集まったという意味が含まれていることはいうまでもない.)
今週はセミナー発表があるので早退させてもらって,いま東京に着いた.
わが領袖のI君はほとんどの講演の終了後にスピーカーのところに歩いていって直接質問していた.
もう西洋人としての暮らしが長いためか(?),英語での質問はよどみなく,
ひょっとすると日本人だと思われてないんじゃないかと心配するほどである.
とにかく「多くの質問で集会を活発化させた」功績で表彰してもいいくらいの勢いで各国の研究者を質問攻めにしていることを,お伝えしておこう.
悪の数学については素人であまり多くのことを言うとぼろが出そうだけれども,
I君は組み合わせ論についての細かい議論はあまり好きじゃなくてそれを包括するような考え方に興味があるらしい.
この点で個別具体的な現象を追究するS君は好対照をなしていている.僕はどっちにもなれない無責任な評論家.
そして,今日は(自分は出席しない)ディナーの会場まで張り切って歩いていって他の二人を遅刻させてしまった.おわびします.
日数がなくて学問的な内容に立ち入った話はほとんどできずじまいだった.
次の機会はもう少し自分も勉強して講演の感想を語れるようになりたいものである.
ホモロジー群を勉強するとまず習う完全列でおなじみのVietoris は 110歳まで生きたらしい.
知られている中ではオーストリア人で最も長く生きた人.数学者の最長寿記録でもあるのでは?
奥さんも100歳まで生きたとのことで,夫婦合計年齢では歴代世界4位になるとか.
開基だと思ったものが被覆になっていることすら示せない.これはたいへん面白いことになった.もう笑うしかない.
復刊ド○トコムから「秋の夜長は、数学書で疲れた頭のリフレッシュがおすすめです!」
という宣伝メールを頂戴したが,
数学の本で頭をリフレッシュするというのがどういうことなのか今一つ想像しにくい.
そんなことより,バスが人間により運転されているという厳然たる事実の方が問題である.
今日も筑波に行って,駅と大学を結ぶバスに乗ったが,信号待ちの黒いタクシーにかすりもせずに
ぐいと曲がってバスターミナルに進入できることがどうしても腑に落ちない.
あの場面で衝突が起こらないのは私にとって大変不自然で気持ち悪い.
(実際にもっと問題にすべきなのは飛行機が落ちないことである.
しかし,私は操縦室すらまだ見ていないので今のところ判断を保留する.)
今日の文のタイトル:「電車で遠出をしてもその間考えもせずただ寝てしまうだけだと分かった」
青春18きっぷ1日分が使えることになったので,グーグル先生に聞いてみる.
普通列車で直江津まで行ってもどってこられることが分かったので,へえと思う.実行.
時刻表をよく読まなくても,気の利いた経路を探してくれるから便利な世の中になったものである.
115系はまだいっぱい走ってる.そのことに別に価値はみとめないが,変わってないなと思う.
写真は撮ってもしようがないと思ったから撮っていない.姨捨のスイッチバックは見ておくといいと思うよ.
勉強したいという気持ちは線型代数の本の写経などで紛らわせて(今日は行列式の定義と諸性質を復習した),
できるだけ思索にエネルギーを振り向けたいと思っているのだがうまくいかない.
具体的な計算できる対象を扱っていないという事情もあって,考えがまとまるまでのあいだ何も書けず,
書けたものはただの絵で,次にこの絵が意味することを考えて,一体何なんだろうとか思います.
ちなみに線型代数も一般の体を想定して勉強したことはなかったので,まったく進歩がないわけでもないかと.
もう何を書いてるのかと.もうこんな自己満足のどうしようもない日記はやめて仕舞いたい.
とりあえず今日から秋は始まったと判断する.いや,夏はほとんど終わりに近いと判断する.
ノートを見返す.三日ほど前に書き付けたはずのものが,もう見る影も無く乾物化しているのに気付く.
考えることを休めばそこから猛烈に乾燥がはじまる.
いろいろ出口がみえない状況である.
「生産的であるとはいかなることか?」「役に立つとはどういうことか?」
「そもそも『役に立つ』ものは世の中に存在するか?」
などを折にふれ考えている.
こういった数学的でないことがらを順序立ててきちんと話せるようになりたいものである.
もちろん数学も数学で考えている.
こちらは「ナマモノの思考を乾物化して出力するにはどうしたらよいか.」
という一般的な問題ともつながっている.
ナマモノの思考なるものはほとんど保持できないし,しばしば矛盾している.
理解できるものは乾物化されたものしかないというのを痛いほど感じる.
一昨日のpdfに少し加筆してその内容を撤回しました.
記録として誤謬があったことは残しておきます.
今日ゼミで考えてみたこと.
ブルバキの「集合論」をその第一ページから読んで何一つ理解できなかったときの衝撃は忘れられない.
大学二年生の教養学部図書館だったかしら.
生きていることの報告を兼ねて.
金沢で買った「じろ飴」が赤いあめ色に鎮座している.
金沢にいる間は,
「あっ!これでできる(できてる訳がないが)」(…講演中や喫茶店で検証…)「全然駄目だ,ああ虚しい」
みたいなことが複数回あって,結局精神的に懇親会はキャンセルのやむなきに至った.
今日は喫茶店の前で美しい淡い緑色の蛾を見た.もと昆虫少年の父によるとマユガの類だろうとのことだが.
で,明日は位相空間論ゼミ.inverse spectra の話だ.
去年握手した Mardesic 先生の定理を勉強したり,Pasynkov の神業にふれたり.これも息抜き.
考えてみれば推論している実感すらなくても新しい知見を得た気になるというのは
数学書を読むときに陥りやすいわなであるかもしれない.
要領の極度にわるい私でも,慣れのせいで色々なショートカット技術を身に付けてしまう.
こういう技術にただ安住しているとそこからなにか崩壊がはじまる気がする.疑わなければいけない.
けれども,何を疑うべきかわからない.
自分は空虚感に被覆されている.あれが成り立つ,だから何だ.これが成り立つ.だから何だ.
位相空間論が特別に空虚なのではない.どの分野のどの定理を見ても同様の感想をいだかずにいられない.
空虚を紛らわすために,数学とは関係のない本を読む.そしてその空虚さの正しいことをより強く確信する.
僕は脱出の見込みのなく,進んでずぶずぶと空虚の泥沼におちていく.
今日は推論している実感がなく証明という証明が御題目に見えてくる.
$S$ がパラコンパクトであることなど使っていないのに
「$S$ のパラコンパクト性より局所有限ひふく何某が取れる」
とかノートに書いている.連想ゲームレベルの思考しかしていなかったことに愕然とした.
位相空間論.Dowker の拡張定理の証明はやばい.
逆極限の絵をなんとなく描く方法を教えてみる.
さて真人間にもどるぞ.
バスで調布渋谷間を往復した.書店で立ち読みをした.位相空間論をまなんだ.コーヒーを飲んだ.
渋谷駅の近くには警官が立っている.夏休みだから少年少女を補導するとかそういった目的かと思う.
そういえば去年の非常に暑い日にバス乗り場の警備をしている人が気の毒でしょうがなかった.
去年の5月か6月かに老人がバスにひかれて死んだ.だから警備が強化された.
バス乗り場は何も変わっていない.では警備は去年と変わらず続いているのか.僕はたしかめていない.
警備がなくても別にいいと僕はおもう.
渋谷駅の横を渋谷駅の百万年後をほんの少し想像しながら歩いてめまいがした.
最近悩み狂うことも悪いことではないと思うようになった.最近妙に平静なので逆にうそくさい.
平静なのは何かが見えていないからだ.見えればたちまち穴に落っこちる.
他の人は何をもがいてるのか馬鹿者がと思う.それでいいではないか.
僕が位相空間論の何を評価しているのかといえば,世の中の何ものとも結びつくまいとする姿勢ではないかとふと思ったりする.
僕はこういう理由で数学の特定分野を追究することが堂々と許される世の中になることを願うものである.
Kさんと将棋を指したら21手で負けました.
ゲーム以前の問題として勝とうという気がなかったことを認めます.
しかし,それでこんなにも早く負けることは僕も予想していなかった.
コップの水面にカージオイドが映るということが理論的にはわかっても実際に見えたことは一度も無い.
見えると思わないと見えることがないとしたら,そんなものは科学の対象といえるのだろうか?
A君が湯呑の茶の水面を観察して見える見えると主張したが,僕には普通の水面があるようにしか見えないので,
「どこにそんな曲線があるんですか?僕には見えません!」と率直なところを述べた.
今日は朝からぬるい風が入ってくるので,昼間に熱風が入ってくるに違いない.そして明日からは熱風もやむ予定だ.
まあ,自分が自然をコントロールするわけではなくて,熱風の吹いていない高原に移動するというだけのことなのだが.
自分の意思と関係なしに何かある特定の事をしなくてはならない
という事態は生きている限りなかなか避けられそうもないものであるが
何かある特定の事をしなくてはならないという事態になったとき,
僕以外の人はなぜ,首尾よくその特定のことを予定されたとおりに
実行できるのであろうか? ずっとこのことを気味が悪いと感じている.
(いちばん最初にこれを感じたのは,一年のドイツ語で,当てられた学生が
訳文を必ず読み上げることができるのを目の当たりにしたときでした.)
よく考えるとバスとかも運転手の気分などで運休になることが一回もなかった.
そしてバスは,自分なら必ずや衝突させるであろう幾多の人や車を回避した.
バスが人間によって運転されているという実感すら乏しくなる.
ほんとうに,バスは人間によって運転されているのであろうか?
あるいは,僕もまた,当然に仕事をまっとうするものと理解されているのだろうか?
みんな,僕と同じように気味が悪いのであろうか?
神保町に行った.時間を濫費した.
頭脳明晰な短い時間に位相空間論をすることに自分が生きていることを感じる.
しかしそんなことを感じても何も出力されないから,たとえば,何かぼーっとした人がいると思われているかと思う.
数理棟は出力されることのない喜び,あるいは悲しみで満ちているにちがいない.
そう思えるようになったことは僕が六年前はじめて数学科生として数理棟に足を踏み入れたときからの変化であるといえる.
今日はふつうの暑い日だった.今日,僕にとって数学は進歩しなかった.
数学には進歩というものがありうると思うが,鉄道マニアの道には進歩はあるのだろうか?
じつはマニアの世界には進歩というものは基本的にはないんじゃないかと思う.
むしろ進歩することなく,いつまでも同じことを面白いと思えることがマニアの条件という感じもする.
ある段階で熱中していたことを次の段階では整理統合し,より高次の活動にうつる,
というプロセスをつづけるたびに,つまらなくなるんじゃないかという気がする.
きょうはからりと暑く,網戸からぬるい風が入ってくる日だ.
ぼったりとした白い部屋の一端は区切られて舞台ということになっていた.
折り紙で満艦飾に彩られたそれは,歌の祭典の最後を見守っているようであった.
もう誰もここには戻ってこないだろう.僕は悲しかった.
これは昼寝のあいだに見た夢であるらしく夢だとかんがえればなんということもないものだった.
夢にだけ繰り返しでてきて,現実にはみたことのない場所,というものが僕にはある気がする.
その場所でよく出てくるのはなにかの学校で,校舎は鉄筋コンクリートだがやや古く,
夢に出てくるときはしばしば文化祭をしていて,夜まで祭をやっている.
暗い化学実験室のまわりのレイアウトは母校のそれを模倣しつつも,しかしより複雑に入り組んだ構造をしている.
学校の別の場所には,無機質な白い壁のあいだを折れ曲がった細い通路が通っていて,
所々にある扉から教室内の黒板の様子が見えて,そこでは数学のセミナーが行われているようなのだ.
こんど夢に出てきたらもう少し詳しく観察してみることにしよう.
その黒板に何か論文のネタになるようなことが書いてあることはないとおもうが,字くらいは読める気がする.
よく考えると Cauchy フィルターの集合で完備化を一度も構成していない.
今朝考えて,暗算の結果できるだろうと勝手におもっているが,書いていない.まあできるだろう.
こだまに載っている完備化の構成は変態な感じだが頭に入りやすい.
極大一様性についての完備化の構成もきてる感が強い.そもそも極大一様性はほとんど完備だし.
まだ countable type がナゾだ.どう位置づけたら自然な概念なのかもわからない.
位相空間論は概念の脳内再配置というプロセスにけっこう時間がかかるものかもしれない.
今日は中途半端な雷雨のために外が蒸し風呂状態に.
そういうわけでビアパーティーだった.
いまい君に英語の勉強の進み具合について聞いた.
英語でチョコレートのアクセントがどこにあるかを聞いた.
それとは関係はないが,キミねえ,そういうのをいじめというのだよ.と言われた.
数理メンバーの叡智を結集した模範的誘導により,西瓜割りはよく割れた.
あまりに割れまくるので事務の人が不満そうだった.ギャラリーは少なめだった.
新大久保の迷産品を食べた.
昨日は曲面結び目のセミナーを聴いて,つぎに一様空間のセミナーをして,寝る前に集合論の論説を読んだ.
具体から抽象へとかけぬけたというとかっこいいが,そんなに大飛躍をしたという感じもしないのが不思議なものだ.
ねむくてすみません.
一様空間はよくできている.距離空間の手垢のついた部分をきれいにふきとってしまった感じである.
けれどもその枠組みが実用とギャップがあるのが難点.便利さをだいぶ犠牲にした美しさなのも事実だ.
一様空間と位相空間の中間には proximity space という構造がある.
つかみ所がないようであるが,位相空間のコンパクト化はその上に入る proximity space の構造と一対一に対応するという,
そこはかとなくありがたい概念である.
生ビール一杯と日本酒一合くらいをのんだ.じぶんできめている就寝時間にはまにあわない.
ねむれなくてラジオを聞いてた.惑星物理学の先生がハスの花について熱弁してた.
役にたつかどうかは関係ないんです.なぜなのか知りたいのです.
メディアでこういう生粋の学者らしい発言を聞くことはすくない.
わけもなく鬱な気分だったので午前中はとにかく寝る.
ついでにいうと午後もほとんど寝る.
もうちょっと進展を見込めるところでがんばるべきなのか
いや,言うまでもなく3次元多様体はむずかしいですから.
4月くらいまでは3次元空間に埋め込まれる3次元多様体はハンドル体くらいのもんだと思ってた.
そんなわけないし.結び目補空間があるし.
無限次元がまだしも簡単におもえてくるぜ!
一様空間論ゼミとスイカ割りが楽しみ! 金沢行きも?
ポーランド学派えらい.初期のフンダメンタは宝の山なんじゃないか?
円周の位相的特徴づけは奇跡なんじゃないかと思うほどよくできているのでかいておく.
(つぎのステートメントで「連続体」とは二点以上からなる連結コンパクト距離空間をさします.)
「連続体 $X$ が $S^1$ と同相であるための必要十分条件は,その中の任意の異なる二点を除いたときに非連結であること.」
ちなみにこれと関連して,「任意の連続体は,それを除いても連結性が保たれるような点を少なくとも二点もつ」という定理があります.なかなか不思議.
今日は暑い.そこでこんな日に思い出す毎年の疑問を無責任にかいてみます.
夏と冬とで,頭脳のおかれる環境はまるでちがうのに,同じ数学的現象を追いかけている確信が得られるのはなぜだろうか?
たとえば同じ証明を読むときに,冬には理解できたのに,夏には意味不明であるということがない(あるいはその理由を季節によるものとは考えない)のはなぜだろうか?
なんか最後の一文が自分でもよくわからん.今日は暑気払いにポーランド学派のトポロジーをかじった.
既存の数学で証明できることをより見透しよく証明できるという事例が十分多数ある新公理は正しいものとして承認することができるであろうか?
ここ一年ほど距離空間の位相ばかりかんがえていた.しかしもっと general なところを学んでみるのも
それはそれで面白さがある.こちらの方が,空間本来の自由な感じが浮き出ているようにもおもわれる.
また,普通に数学をしているぶんには病理とか言って無関心のうちに放置されていたことがらが,
実は整然とした法則にしたがっていることがわかるというのも,うれしいことである.
バナッハはバナッハ空間を考えた.シャウダーの不動点定理とかでわかるようにそのころのひとは非線型なものをあつかうのがわりと普通だったらしい.非線型というと何かてごわくむつかしい何かをやってるという感じもするが,線型なものを非常に有難がる考えがそのころは存在しなかった.じゃあ,バナッハ空間の位相的分類とかいうのは,そのころの人たちにとっては普通の問題意識だったのかしら.まあ,適当なことを言っています.
ああ,それにしても,また全然関係ないけど,無矛盾性証明を「武器」にして,本当の数学の定理を探し当てるってすごいことですね.そして日本で消費される馬肉の60パーセントはポーランド産であるらしい.本当かよ.
和菓子の「若鮎」をうら側から見ると鮎にはとても見えないことにきづいた
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