何も分からなくなった一年だったが…,しかし,毎日でもこの分からなさに立ち戻りたい.
分からなさを忘れて,なおかつ自分へのウソつきであることも忘れて,その欺瞞性に向き合いすらしない.
そうしてあらゆる気晴らしでもって死へと猛烈に突き進む,これはおそろしい.
数学やりたいと思ったら一日が終わっている! 明日は一年が終わっていると呟かなければならないのか!
意味が分からない!
それでも年末のカウントダウンはラベルの「ボレロ」がいいとか思っている!
思うことに正直であれば,言うことに矛盾が生じ,言うことが整合的であれば,自分の思いにウソをついたことになる! なんという当たり前のことだ.
完備距離空間といえば Baire の範疇.同相群は局所コンパクト群ではないけど,興味のある場合ではふつう完備距離空間だ.
だから,homogeneity の研究に meager な集合のような概念は意外と役に立つ(らしい).自分ではまだ出来そうにないが.
「Meager な集合に属する」を「その集合に属する確率は零である」に頭の中で言い換えるとわかりやすい.とっくにみんなやっている?
最近,homogeneous space の勉強をしている.数学者の間で homogeneous space といえば
ふつうリー群の剰余類空間のことをさすんじゃないかと勝手に思っているが,もっと一般的である.
(同相群 Homeo(X) が X に可移的に作用するとき,X を homogeneous であるとよぶ.)
で,いまのところ,この話のつづきはない.
早弁(はやべん)を身体的に理解することはいまや限りなく難しい.というか,そんな単語あったな,と思った.
(注:早弁をしていた時間が起床時間に近く,そのあと朝昼兼用の食事をしていることが多い.)
年賀状を書いたり,論文提出についての注意事項を確認したりした.
最近色々のものの期限が迫ってくるので,気がそわそわして仕方がない.
個々には別に大した仕事ではない.
私の心はすきあらば眠ろうとし,夢のなかに離脱しようとする.
この離脱運動と,暴力的なまでにこれを引き留める理性との格闘にただ疲れ沈黙するのである.
これではたとえやるべき仕事が終わったとしても,へとへとになってしまう….
充実した仕事というのは離脱運動そのものが仕事に向かうことであるようにも思われる.
懐かしの?「層・圏・トポス」が復刊されるそうな.
でも,今あらためて読んでも理解度は昔と大差ないかも….
(今日のことではないこと)
はーむぺーじの作者氏に
「そういえば○○さん(私の名)って筆記具に名前つけていませんでしたっけ?」
と訊かれたのだが,僕が名前をつけていたのは筆記具ではなくて傘(青雲丸).
命名から半年もしないうちに電車に置き忘れて,行方不明.
何かが真実のすさまじさを忘れさせる.気が付くと時間が過ぎている.
すさまじさを思い出す.それは正視に堪えないが時間は過ぎている.
食べる.トイレに行く.寝る.時間は過ぎている.
読む.時間は過ぎている.この文章を書いているのは今である.それはもう今ではない.
何も理解しないまま一日が終わる.すべての感覚がはかなく通過していく.
またしても時間の目算を誤った.ある意味,研究集会でのミスより痛い.
S君の4次元ポケットの中は数学の本で一杯.4次元トポロジーの本も.
高崎駅の真上に寝てブルートレインを見下ろすというすばらしい経験をしました.
平面内の連続体が aspherical であることはとうに示されていたらしい.
1次元ペアノ連続体についてすごいことがわかったらしい.
進歩しているという自己満足を少しだけする.
みなそれぞれの満足という観念をたよりに生きているのはたぶん本当である.
しかし…?
賢明な読者はすでにお気づきのとおり,この簡易日記は,私にとって自分の書いた文字との安全な対話の場所でしかなくなりつつある.ひどい話,これは精神安定剤である.もはや日記ということはできないし,もう現状ではほとんど生産的事態を発生させないだろう.最初は,インターネット上に日記を書くということそのものが新鮮なことであって,誰々日記はどうこうと,日々の講義室ではその話題で盛り上がりもしたのだけれど,実はこの日記はそういう現実があったときから帰納法で続いているに過ぎないともいえる.毎日ウェブ日記を書いているというのは別によいことでもなんでもなく,適当にしか書かないのが健康なすがただ.けれども安全な対話がよくないとも言っていないし,健康なすがたでなければいけないとも言っていない.そんな断定には懐疑が欠けている.
旧漢字好きというのは偏差値一定以上の集団になぜか必ず存在するんですね.私も旧漢字を使ってひとりで悦に入っていたのです.旧漢字とかなんとか言っていますが,戦後の当用漢字ができるまでは,おおむねその書体でみんな書いていたわけでありますので,原理的な困難はどこにもないわけであります.そして,いろいろ勉強してまいりますと,昔の日本人といえども,こんにち旧漢字とよばれている書体と厳密に同一なものを書いていたわけではなくて,いろいろな筆写体と呼ばれる略体が通用していることがわかる.そういうわけで,僕が高校二年生くらいのころは,この筆写体が自然に書けるように練習しました.慣れてきますと,気分によって,同じ字を書きたい場合でもランダムに色々な書体が登場するほうが自然に思われてきます.写像の写なんかは,極端に丁寧に書きたい場合は旧字体,ややきちんと書いてみたい場合は筆写体,そして残り大半は当用漢字の書体になるという風になってきます.しかし,写像の写はちょっと特殊なんですが,数学に必要な漢字というものがあまりに少なすぎる.漢字を忘れる心配こそしておりませんが,数学に浸漬した生活を送っている限り,自分の幼児期からの膨大な積み上げが死蔵されることになるわけです.もうこの日記で指摘していると思いますが,私の数学生活で,クサカンムリの漢字を書く機会は,葉層構造と書くときくらいしかないのです.この肝心の葉層構造ですら,板書を写すときは foliation になり,時間がなければ簡単に fol となり,しかもその fol がなぜか一画で書かれるという有様です.昔は f を一画で書くことすら思いつかなかったのに.やや脱線しましたが,クサカンムリには少なくとも三通りの書き方があるので,書いていて楽しいのです.おそらくPC画面上に表示されているであろう三画クサカンムリと,四画クサカンムリ,「前」の字の最初の三画と同様の書き方ですね.どれが正しくて良いということではないですが,伝統的には,ふつうは後の二つを使うことが多かったようです.私は四画クサカンムリは植物っぽい感じが出ていて大変好きなのですが.書き順にも複数の流儀があるらしいですが,私はタテヨコヨコタテの順にして,はじめのヨコは撥ねる習慣が身についております.昔はこれを書くときにも,いささか気恥ずかしいものがあったのですが,いまやクサカンムリの書き方の差異は気にしないという私のルールがすっかりできあがっているので,別になんとも思わず,ただクサカンムリを書く機会が僅少であるだけです.とにかく旧字体とか新字体とかいった違いは,私にとっては全く同一の字の,書く人による書き癖の差のようなものです.だから旧字体を書けることを自慢する相手として私は不適当です.體K上の線型空間と誰かが書いたとしますと,そんなに丁寧に書かなくてもいいのにという感想はもつかもしれませんが,それだけで私は何も言いません.だって,體は体と何も違わないじゃないですか.そこを感覚的にわかってくれたらそれでいいのです.とにかく,写像の写以外で字体のバリエーションをつける機会が少なすぎるし,だいいち数学を考えることが,そのような楽しみを奪っている側面もあるのです.別に不満というわけでもないのですが,これにも些かの賛同をいただきたいのであります.
「ANRというのはよくわからない,いったい何なのだ,ANRでない典型的な例は,」というご質問をいただいたので,
「まあ,局所的にきれいな空間のことです.そうでない例は,収束点列…カントールセット…でも,まあ,みんなANRです」
結局答えるのが面倒になってしまい最後は明らかにウソなことを言ってしまった.
多くの場合,ANRにならない空間はANRよりずっと手前の仕様もない条件ではじかれていて,ANRになる空間は誰がどうみてもANRとなっています.だから反例をあげたくらいではANRの説明にはならないというのも尤もな話です.代数的位相幾何で空間に要求されている主な性質がホモトピー拡張性質であり,それを抽出したという点から説明した方がいいのか.そういえば Hawaiian earring(に普通に基点をつけたもの)の上の reduced cone は可縮なのか気になった.
前にセミナーでやっていて「ここはごまかしたな」と思ったところにギャップを発見した.
それは埋まりそうなのだが,別のギャップを発見した.一回「M先生の演習問題レポートを書くつもりで証明を書く」という掃討作戦を実施すべきなのだが.
あっここは this じゃない these だ
とにかく単複に関する英語の区別がなかなか直感的にできない.書いたしばらく後におかしいことに気が付くことの何と多いことか.僕は根本的に単複の区別を体では理解してないということなんだろう.三単現の s はとりあえずつけておけば数学では8割5分正解だったりするので,間違う機会がそもそも少ないといえる.定冠詞と不定冠詞のまちがいは,単複まちがいより少ないところを見ると,こいつらはもう少し身についているといえるのか(実際には間違いまくっていて気が付いていないだけかもしれない).
かの有名な「フリーならプロジェクティブ」は選択公理と同値らしい.
I 研究所所長から画像認識と人工知能などに関しての話を聴く.
数理で聴ける話ということで,もっと技術的なものかと思っていたが,
二回ほどかんたんな式を黒板に書いたほかは一般向けの講演に近い感じをうけた.
もっと数学的な中身を知りたいとおもう一方,紹介される応用はどこかで聞いたようなもので,ものたりなかった.
パソコン画面の中にきれいに再現された銀座や秋葉原の街の中の店でものを売ったり買ったりでき,
宣伝広告を貼ることができ,要約すると経済活動ができるようになるという.できるのは当然だと思うし,
だからこそ私はそれをどうだっていいと思う.そういう買い物がふつうになれば,そこで買い物をするだけだ.
「すると,現実というもののあり方が,だいぶ変わってくるのではないでしょうか?」という W 君の質問を,
聴衆全体が,あまりまじめに相手にしない雰囲気だったのにもがっかりした.
答え方から所長さんはかなり考えておられるように見えたのだけど.しようがないのかなあ.
TA2回目.よって題意は示されたで証明を結ぶのがまずいと思っていた僕なりの理由を言おうとした.問題を出す教師と,それを待ち構えて解く生徒という「場面」を反映しすぎていて,僕はあまり好みじゃないというようなことは言えたと思っている.先生によると問題はそのような個人の好みとは別のところにあるらしい.
黒に加えて赤と青のサインペンを持っていると,その使用頻度の少なさに反して存在感が濃厚なのが気になる(色にプラスチック感がある).どうにかならないのか.それから,家にあった古いサインペンは筆先がまるいんだけど,最近のは尖っていて,力を入れるとすぐつぶれる.設計変更されたのだろうか?
早起きをして筑波に行った.
数学会のときに一緒に飲んでいて僕を知っていたにもかかわらず僕を identify していなかったという人がいるらしい.
ところで fibrewise coarse structure は時期尚早なのでしょうか.
ある日,コンパクトとは任意の開被覆が有限部分被覆をもつことであると習った.何のことかさっぱり分からなかった.
そしていま,コンパクトである/ないは僕の日々の行動に決定的な力を行使する.たとえば目の前にあるコーヒーを飲む飲まないに影響する場合がある….怖ろしいことのようで,ふつうのことを書いているような気がした.
今日はあまりに激しく移動したので,午前中にRIMSの1階で聴いていた講演のことも,また,午後に駒場でやったTAのことも,印象が薄められてしまった.特に,後者の印象が薄められてしまったのは残念なことだ.なにしろ,数十人の学生がそろって数学という道に進む,あるいは巻き込まれる記念すべき時であるのだから,203系統に間違いなく乗るとか,乗り換えを正確にやるとかいったことによって,その事実がかき消されてしまうことには,いたたまれないものがあるのである.駒場の教室は暑かった.僕は窓をあけたが,みんなよほど太陽の光がいやなのか,じきに窓がカーテンで閉じられてしまった.そのせいか,教室は熱気でむんむんとしていた.カーテンを開けるように言いたかったが,僕は脇役であるのであまり強くはいえない.そして補足にはなるけれど京都ではあべのりに会わなかった.
明日から京都にいくので,今日はそれまでにやっておきたい諸々をやろうと思ったのだが,
秋の日は短くて,そのほとんどができないままに日が暮れてしまいそうである.
あれも書いておきたいし,あのことを勉強しておきたい.でも,手遅れ感が強くなってきた.
そういえば,京都にはあべのりが行っているんでしたっけ.よろしくです.
(注意:この日の日記には「実用的」内容がふくまれます.)
昨日突如おもいついて,スケッチブックを買った.
自習のためにどんな筆記用具を使うかについては,もうほとんど最適解に達していると信じていて,
これからもほとんど変わらないんじゃないかと思っている.特にシャープペンシルについては学部3年から
同じもの(ペンテルのグラフ0.5ミリ)を使っていて,これ以上いいものを見かけたことがないので,
結果として8年くらい同じものを使っていることになっている(こういう文脈で8年って短い気もする).
この他,ノート,けしごむ,シャーペンの芯もほぼ毎回同じものを使っている.そうでない
と,自分の字を書いていない気分になって変な感じだ.こだわりの全然ない人もいるみたいだけど.
けれども,講義を受けるときにとるノートについては,まだこれといった解答が出ていない.
Beamer での発表などでは,すぐに次のスライドに移ってしまうから,あるていど速記ができないと
ほとんど何も書けずに終わってしまう.いくらルベーグ積分の授業で速記力が鍛えられたからといっても
スライドの速さには負ける.映像をそのまま記憶しておく器用な脳も持っていない.
デジカメで撮るという手もある.しかしこれは脳に刺激が少なすぎて,身につかない.どうにかならないか.
RIMSでもうすぐGNの集会があるということもあってその辺を考えていた.
そこで思いついた案が,スケッチブックにサインペンでさらさら書いていくというやり方である.
確かにサインペンは速く書けそうだ.なぜスケッチブックかというと,僕はスケッチブックのあのデザインが
たまらなく好きだというのが第一.次に,文房具屋でスケッチブックについての説明を見ると,水性ペン
の筆記適性がよいと書いてあったということ.もう一つ,表面の滑らかな普通の紙だと,インクの吸収が
おくれるため不用意に字をさわって紙面が汚れることがあるから,というのも理由である.
斯様な訳で,今日の高木レクチャーにはスケッチブックとサインペンを持っていった.
あまり講演の内容はえらばず,自分の体調にあった時間に始まる講義で性能を確かめてみようとおもった.
着席は2時30分で,時あたかもブルギニヨン氏の講演が始まろうとしていた.この講演で「性能試験」
なんかしていいのだろうかとの思いがよぎるが,これ以上いい試験ができる機会もなかろうと逆に考えた.
1時間の講演時間は,あっという間に過ぎた.講演の数学的内容もたいへん魅力的だったけれども,
ここではこちらの「ひとり実験」の結果を述べてみたいと思う.まず,サインペンの筆跡は非常にはっきり
している.だから後で見返すときも,字がぐちゃぐちゃで読む気を喪失するといったことがない.
また,スケッチブックの紙質による「ひっかかり」が心配だったのだが,これは速記の障害になるほど
ではなかった.多少字がかすれたが,これは古いペンでインクが減っていたからかと思われる.
若干,手の汗でにじんでしまったところがあったが,全体にはそんなに影響はなかった.問題点は,
まずは値段で,紙のために毎時 50 円を消費する.この値段をどう捉えるか.また,一冊のスケッチブック
に入っている紙の枚数は少ないから,長い研究集会では何冊ものスケッチブックを持参する必要がある
だろう.もう一つの問題は紙の表面の「紙粉」で,これが原因で手のひらが肌荒れになってきた.
総じて,コストを度外視すれば,スケッチブックとサインペンはノートをとるのには適しているんじゃないかと思う.
その次のジス氏の講演は,サインペンには手の汗やお茶などでにじんでしまう問題があると考えて,
休み時間中にコンビニで買った油性ペン「マッキー」でノートをとってみた.
油性ペンの問題は,普通に書いてもにじむことだ.だから,それを考慮して,字がつぶれないように
字形を微妙に修正して書いたりすることになる分,講義への集中力が落ちるように思われた.
結局のところサインペンの方が気楽に書ける.だからこれから使うことになるとすればサインペンだろう.
ジス氏の講演はとても面白かった.関数解析を使った証明の美しさを認めつつも,やっぱり
直接的な証明にも拘りを見せているあたりに数学観が見て取れる.僕は関数解析的な証明で満足してしまうかも?
最後に,サインペンのペン先が傷まなかったが気になったのだけど,講演後に見てみたら,
少なくとも見た目上はまったく無傷だった.スケッチブックの紙面は粗いし,
普通に考えれば,毛羽立っていそうなものだったが.
さすがサインペンとおもう.
高木レクチャーに出席しようと思って家を出発した.私には分からないだろうし,私が分かったら不都合だろうと思った.
天気がよかった.大講義室に着いた.コン様は大講義室の三段黒板の扱いに慣れていらっしゃるように見えた.
講義の内容は,まったく期待したとおり分からなかった.写真のパネル展示がたいへんよくできていて,
講義をフォローできなかった僕はそれを見て救われ,それと同時にさっきの講義についての数学者の会話に横から耳を
傾けることで,頭の冴えてくる感じがした.しかし,そのつぎの講演はまた分からなかった.分からない講演を聴く効果を
僕はそれほど信じていないかもしれない.講義を聴くなら,最前列に座って,ここはこうですか,と一言一言つっかかり
ながら,講義のスケジュールをむしろ乱すくらい質問したい.しかし明らかに(状況的にも)そんなことはできないし,
天気がいいということもあって,喫茶店に退却した.
位相空間論の本を広げた.店の中央で女三人がずっとしゃべっている.誰々が何々したいオーラを出していると言っている.
私は何をしてもお金は後からついてきた,そうではない人もいるけど,と言っている.きっと真実だ.
昨日の日記を見ると髪型がフラットだとか何とか書いてあるので,慌てて消す.
パソコンの中を色々見ていくと,最近見ていない写真が出てきた.
そういえば Steve Ferry の話をしたので,Ferry 関係のものを.
なんでこんな写真を撮ったのか知りませんが自分のノートを撮影したものなのはたしかです.
…(gf)(gf)(gf)の写像柱が …(fg)(fg)(fg)fの写像柱に一致するという絵だった気がします.
たしか,Hilbert cube manifold のホモトピー同値を同相写像に改変するのにこういうのを使った気がするのですが…
あまり詳しい説明を求められても,ちょっとできなくて残念です.でもこの絵はたいへん印象的でした.
髪型の変化に対する動揺はなんとか収まった.今は,Steve Ferry 氏のホームページを見て,geotop 萌えになっている.
多様体の位相幾何でも僕は細かくて,顕微鏡をのぞいてピンセットで操作しているような気持ちになる部分が好きだ.
こういう奇特な趣味の人は,このHPにはまること請け合い.もちろん,それですごい結果を出しているからすごいんですけど.
つくばに行ってきた.帰りに秋葉原の駅ビルのようなものに入った.そこに書店があって,プチ鉄道オタク本がこれみよがしに平積みされている場所があるのを知った.世の中には「秋葉原とはいかなる街なのであろうか?」のような,それこそ考えれば考えるほどどうでもよいようなことを毎日一所懸命に考えなければならない人もいるのかもしれない.今日は金曜日で,ヨドバシアキバの諸々の食堂は混んでいた.その食堂の下の階にはさっきのとは違う書店があり,そこで数学の本を読んで時間をつぶしていればじきにピークを過ぎるにちがいないと思ったら,ピークを過ぎるどころか列が長くなる一方だ.仕方がない.何かの店でビールを飲みながらセミナーブルバキの無限次元多様体論の解説を読んで帰った.
美容院にいくべきか.1000円カットで10分間のうちにバッサバッサと髪の毛を切断されるのも味なものかと思う.
この人は毎日大量の人の髪を切って,何を考えて生きているのだろうとか考える訳である.迷いどころである.
そして…美容院に行ってパーマをかけて髪型が変わりました.
でも,考えてみると髪型が変わると何が変わるのか.これが唖然とするほど変わらない.
指数定理の素晴らしさが理解できず,Arkhangelskii のp空間への理解が深まらなかったことをはじめ,
髪型以外の一切は変わらないことが分かりました.
そんなことは分かりきっているわけですが,やっぱり髪型の変化以上の何かを期待してしまったから
こうした後悔をしているのでしょう.自分に何度馬鹿と言っても言い足りないほどの後悔です.
10分の1の出費と20分の1の時間とでバッサバッサと切断してもらったほうがどんなによかったでしょう.
そして…数学者という人種が身なりに構わない理由が体で実感されたように思えました.
そんなことが実感できても,一つもうれしくはないのですが….
どんなにくだらないことであっても数学の述べていることは確かです.証明し確立されている限りにおいてはその確かさの程度にいささかも違いがない.これは驚くべきことです.ただし,すべての大定理が 1+1=2 のレベルへ引きずりおろされるわけですが….